Detroit: Become Human と自我論
Detroit: Become Human (Steam版)を進めてます。
たぶん中盤くらいだと思います。
ちょっと昔のサウンドノベルの豪華版みたいな感じで楽しいですね。
こういうストーリーが分岐して、平行世界的に楽しめる形式は好きですね。
あと、カーラさんがかわいいです。
https://www.jp.playstation.com/games/detroit-become-human/character/
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Detroit: Become Human のテーマ
やる前の予想では、アンドロイドのアイデンティティ、自我の問題をテーマにしたものかと思ってました。
ただ、やってみると、そうでもなさそう。
もう、このアンドロイド達、自我を持ってるじゃんね。
設定上、ロボットであったとしても、ゲームの表現としてはひとりの人間として描かれているわけです。
内面の感情も持っているし。
だとすると、あらためてテーマはなんだろうと考えたのですが、これ、奴隷問題じゃないかな。
現代には奴隷はいないですが、実質的に経済的に奴隷のような境遇にある労働者はやはり居るわけです。
今回のコロナ不況でも、そいういった人達が真っ先に解雇になり困窮に追い込まれているわけです。
そいういった人達を「アンドロイド」として描いてるのが、この Detroit: Become Human なのではないか、という感じがします。
クリアする頃には、テーマもわかってくるでしょう。進めていきたいと思います。
ところで、自我論
ついでなので、にしティーの考える自我論について少し書こうかと思います。
にしティーは、原理的には自我=私という意識は、存在しないと考えてます。
この考えは、近年の脳科学と仏教を元にしています。
例えば、脳科学の研究で「意識が立ち上がる7秒前に、脳波には反応が現れている」という話があります。
また、脳は各モジュールでできていて、それらのモジュール同士の相克で意思が決定されるという話もあります。
なんにせよ、脳内での活動があった上で、その後、仮想的な「私」というものが立ち上がってくるらしいのです。
仮想的でも「私」というものがあると、感覚の統合などが行えるし、別な人とのコミニュケーションにも便利だから生まれたという説もあります。
また、仏教ではその最初から無我といって、「私」は無いという結論になっています。
目、耳、鼻、舌、身体、脳のはたらき、から情報が集まりイメージが生じ「私」という仮像が立ち上がる、と説明されています。
仏教での修行は、イメージという解釈を持たず、私という意識も持たず、ありのままの世界を見るということを目指します。
現在のサイエンスの知見と、古代から綿々と時の試練を乗り越えてきた仏教が同じようなことを言っているので、たぶんこれは正しいんじゃないかと思ってます。
ほんとうのところは、仏教の修行をして実感として体感する必要があるんですけどね。
おっと、Detroit: Become Human の話から脇道にそれました。
またゲームが進んだら記事を書いてみたいと思います。それではまた!
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